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5年間の不登校から復帰したSSさんの作文①
私のクラスで不登校から復帰したSSさん。そのSSさんの作文を紹介します。
「私は小学校5年生から、中学3年生の3学期まで学校に行くことができなかった。その3年間はほとんど外に出ず、昼と夜が逆転している生活を送っていた。
最初は家族も学校に行くように言っていたが、日が経つにつれ何も言わなくなった。私自身も「学校に行かなくてはいけない」と思いながらも、行くことができない自分にいら立ちをを覚え、そのイライラをを家族にぶつけていた。
そんな負い目から、少しずつ家族と話すことも少なくなり、ついには、家族と会わないように毎日を過ごすようになった。
小学校4年生のときにAちゃんと同じクラスになり、意気投合した。何をするにもいつも一緒で、朝、休み時間、校外学習など、どんなときにもAちゃんとしか一緒にいなかった。
5年生のときも同じクラスになった。私は休み時間になるとAちゃんの所に行っては、たわいもない話をしていた。
あるとき、Aちゃんの所に行くとAちゃんは他の友達と話をしていた、その中に入って一緒に話をしていたが、Aちゃんは私に話かけてこなかった。私は「Aちゃんが私をさけているのかも」と感じた。
次の休み時間はAちゃんの所には行かなかった。すると、Aちゃん達は楽しそうに話をしていた。そして、私をチラッと見て笑っているような気がした。私はバカにされた悔しさと、Aちゃんに裏切られた悔しさで学校に行くのが嫌になった。
次の日、体調が悪いと母親に嘘をつき、学校を休んだ。夕方、Aちゃんが明日の予定を家に届けてくれた。でも、私はAちゃんに合うことができなかった。次の日も、また、次の日も学校を休んだ。
担任の先生が家にお見舞いに来てくれたが、先生と話すこともできなかった。そのうち、Aちゃんも家に来なくなり、私は学校に行かなくなった。
中学3年生のとき、担任の先生が日記帳や宿題、掲示物を持ってきた。「私もクラスの一員だからみんなと同じようにやるべきことはやってもらいたい!」と言っていたことを、母親から聞かされた。
はじめは何にもやらなかったけど、先生の書いてくる日記を読むようになった。日記には「先生のこと」「クラスで、はやってること」「仲間のこと」などいろいろ書いてあった。
だんだん、その日記を読むのが楽しくなってきて、先生が家に来るときは、2階の階段から、先生と母の話をこっそり聞いていた。
先生が私の誕生日におめでとうと書いてくれた。私も勇気を出して、先生の誕生日におめでとうと日記に書くことにした。
「先生、誕生日おめでとうございます」
たったこれだけの言葉を書くのに一時間もかかった。はじめて、日記に返事を書いたのは夏休みだった。先生は夏休みも家に来ていたので、母を通じて日記帳を渡した。
次の日記に先生からのお礼のコメントが書いてあった。
それ以外はいつもと同じような内容で、私はホッとした。
それから、私は少しずつ日記を書くようになった。それとほぼ同じ時期に、AちゃんやBちゃん、Cちゃんからの手紙を先生が持ってきた。
その手紙には私のことを心配していたこと。学校に来なくなってからは、担任の先生が「迎えに行ったりしちゃダメだ!」と言ったこと(登校刺激を与えないこと)が書いてあった。
今の先生は、「手紙を書きたかったら、書いていい。」「あいに行きたかったら、あいに行けばいいと言ってくれたこと。」などが、書いてあった。とても嬉しかった。
先生と日記の交換をするようになって、先生が英語と漢字の勉強を進めてきた。私も進学を考え始めた頃だったので、先生のつくったプリントや単語練習、漢字練習をやるようになった。
また、先生に勧められ、クラスの仲間との日記交換もすることになった。
みんなが、私へのメッセージや趣味のこと、進路のこと、好きな芸能人のことなど、いろいろなことを書いてくれた。この頃には私も自分のことをハッキリとかけるようになっていた。そんなみんなの気持ちに私も答えようと気持ちを決めた。」 → つづきはこちら「不登校が解決した子どもの作文②」
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25/03/24
25/03/17
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私が学校に行けなかった理由
私のクラスで不登校から復帰したSSさん。そのSSさんの作文を紹介します。
「私は小学校5年生から、中学3年生の3学期まで学校に行くことができなかった。その3年間はほとんど外に出ず、昼と夜が逆転している生活を送っていた。
最初は家族も学校に行くように言っていたが、日が経つにつれ何も言わなくなった。私自身も「学校に行かなくてはいけない」と思いながらも、行くことができない自分にいら立ちをを覚え、そのイライラをを家族にぶつけていた。
そんな負い目から、少しずつ家族と話すことも少なくなり、ついには、家族と会わないように毎日を過ごすようになった。
小学校4年生のときにAちゃんと同じクラスになり、意気投合した。何をするにもいつも一緒で、朝、休み時間、校外学習など、どんなときにもAちゃんとしか一緒にいなかった。
5年生のときも同じクラスになった。私は休み時間になるとAちゃんの所に行っては、たわいもない話をしていた。
あるとき、Aちゃんの所に行くとAちゃんは他の友達と話をしていた、その中に入って一緒に話をしていたが、Aちゃんは私に話かけてこなかった。私は「Aちゃんが私をさけているのかも」と感じた。
次の休み時間はAちゃんの所には行かなかった。すると、Aちゃん達は楽しそうに話をしていた。そして、私をチラッと見て笑っているような気がした。私はバカにされた悔しさと、Aちゃんに裏切られた悔しさで学校に行くのが嫌になった。
次の日、体調が悪いと母親に嘘をつき、学校を休んだ。夕方、Aちゃんが明日の予定を家に届けてくれた。でも、私はAちゃんに合うことができなかった。次の日も、また、次の日も学校を休んだ。
担任の先生が家にお見舞いに来てくれたが、先生と話すこともできなかった。そのうち、Aちゃんも家に来なくなり、私は学校に行かなくなった。
中学3年生のとき、担任の先生が日記帳や宿題、掲示物を持ってきた。「私もクラスの一員だからみんなと同じようにやるべきことはやってもらいたい!」と言っていたことを、母親から聞かされた。
はじめは何にもやらなかったけど、先生の書いてくる日記を読むようになった。日記には「先生のこと」「クラスで、はやってること」「仲間のこと」などいろいろ書いてあった。
だんだん、その日記を読むのが楽しくなってきて、先生が家に来るときは、2階の階段から、先生と母の話をこっそり聞いていた。
先生が私の誕生日におめでとうと書いてくれた。私も勇気を出して、先生の誕生日におめでとうと日記に書くことにした。
「先生、誕生日おめでとうございます」
たったこれだけの言葉を書くのに一時間もかかった。はじめて、日記に返事を書いたのは夏休みだった。先生は夏休みも家に来ていたので、母を通じて日記帳を渡した。
次の日記に先生からのお礼のコメントが書いてあった。
それ以外はいつもと同じような内容で、私はホッとした。
それから、私は少しずつ日記を書くようになった。それとほぼ同じ時期に、AちゃんやBちゃん、Cちゃんからの手紙を先生が持ってきた。
その手紙には私のことを心配していたこと。学校に来なくなってからは、担任の先生が「迎えに行ったりしちゃダメだ!」と言ったこと(登校刺激を与えないこと)が書いてあった。
今の先生は、「手紙を書きたかったら、書いていい。」「あいに行きたかったら、あいに行けばいいと言ってくれたこと。」などが、書いてあった。とても嬉しかった。
先生と日記の交換をするようになって、先生が英語と漢字の勉強を進めてきた。私も進学を考え始めた頃だったので、先生のつくったプリントや単語練習、漢字練習をやるようになった。
また、先生に勧められ、クラスの仲間との日記交換もすることになった。
みんなが、私へのメッセージや趣味のこと、進路のこと、好きな芸能人のことなど、いろいろなことを書いてくれた。この頃には私も自分のことをハッキリとかけるようになっていた。そんなみんなの気持ちに私も答えようと気持ちを決めた。」
→ つづきはこちら「不登校が解決した子どもの作文②」
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